大雑把な性格が物事を”良い加減”に向かわせることもあれば、”いい加減”であったがために、後々、本来はしなくても良かった余分な物事に対処する羽目になることもある。
困ったことに大雑把だから、”良い加減”と”いい加減”を見極め行動を変えるという機転の効いた行動にも欠けぎみなのだと反省している。
英国へ引っ越してきて、立ち上げ時期の人間関係の構築を思えば、大雑把さはなかなかに”良い加減”に働いた。
”背伸びしない、卑屈にならない、心を開く”をモットーに、特定の誰かに多くを求めず、今の自分の立場や身近にやりたいことを明るく話すことは、前向きな人たちと繋がるきっかけになったように思う。
特定の親友に寄らず、尊敬できるところのある友人、知人が身近にいて、時々連絡を取ったり話ができれば満足という”大雑把な”人間関係への嗜好もハードルを低くした。
一方で、規則やルール、記録を基に行われる手続き系はなかなかに苦戦している。
家族の生年月日はかろうじて覚えているが、それ以外の出来事の詳細や年月日は忘れてしまう私なのだ。
それが(海外)引っ越しによって、それらを提示しなければならないことがある。(海外)にしたのは日本にいても求められることはあるからだ。とにかく、遠方への引越しはこういう自体を起こりやすくする。
大雑把なので記録すること自体が面倒で、頑張って記録してもどこに記録したか忘れてしまう有様。
ここ1週間で”いい加減”から発生した案件を2件抱えてしまい、さすがに改善の必要を感じている。
記録の必要なことを洗い出す。分類する。確実に覚えていられるところに記録を取る。
負け犬の遠吠えの如しだが、記録を取ることによって人間社会は格段に利便性が上がり、しかし、記録することで気づかないうちに失った自由や制限された行動があるのではないか。
現代社会はまことに要求が高い。
私はその能力に欠けている!と宣言するわけにもいかない。
宣言して得られる責務からの解放は、失う自由度の大きさを考えると比べ物にはならないのだから。
ああ、それでも、地球は回っている(だから、まあ良いじゃないか)
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